昭和44年05月27日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 物事がはかどらない。願ったおかげがいっこう成就しない。これはどうした事じゃろうかと。こりゃまだ信心が足りんからだと。一心の信心していけばそっからおかげ受けられると仰っとられるが、それからそこから一心の信心をするという事。ここにもそれが一心という事ね、神信心もこの一心を出すと直ぐにおかげが受けられると仰る。この一心とはどういう一心か。そこからの信心。これ程の信心するのにどうしてこんなに物事がはかどらんのであろうかと。
 これだけ拝みょるとにこれだけお参りしょるとに、どうしておかげが受けられんだろうかと。そういう考え方は間違いであってね、これは自分の信心が足りんとはどういうことかと。拝み方が足りんのか。お参りの仕方が足りんのか。お供えの仕方が足りんのか。そんなこっじゃないって。これはまぁだ私の信心が足りんからじゃというそのところね。まぁどういう様なことを解らせようとしてしておいでられるかとね。
 この三十六節にも「神信心も、この一心を出すと直ぐおかげが受けられる」。今までこんなことがはかどらなかったね。どうしてもおかげにならなかった事が、いわば手の平を返すように、おかげになってくる。その一心とはどういうような事だろうかと。そんなにすぐにおかげが受けられる一心とは。例えばこの三十六節の、大体この御理解の意味というのは、一番初めも言うておられます様に、日本国中のあらゆる神、みな信心すると言うが、という事は。
 まぁ何様でも拝むそれが信心が手篤いのだという様な、思い方をしている人が、沢山有りますねぇ。もうぐりぐりっと自分の家ん中に、屋敷の何様神様とお祀りして、はぁ皆んなにお線香立てたり花を挙げたりと言う年寄りはいったい、それこそあらゆる神様という神様は、八百万の神々様で拝むでしょうが。だからそういう信心ではいけない。頼むならこの神様この仏様と自分の心に定めて、それを一心に拝めとこう。それをここに例えば家を建てるにも棟梁がなければとこう仰るそのう中心がなければとこう仰る。
 草木でも芯というたら一つじゃと。草木でも芯というたら一つじゃと。神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられるね。ですから例えば今まで何様でもまぁ拝みよったとと、何様でも拝みよったけれども、金光様ひとつにしたらおかげが受けられたと、いうような事は実を言うたらないです。そんなら皆さんだってそうでしょうが、もうここにお詣りしとられる方の殆どの人が。いわゆる金光様一本であろう、然もなら一心に拝みござるということにおいては、毎朝こうやって朝の御祈念参って見えるのだから。
 これ以上の信心はないです。一心を神様に向けてあられるのであり、もう神様も仏様もね、まぁ仏様は御先祖改式しない人が拝もうけれどもです。んならひと事どんなことを頼む、神様頼む方と言うたらこの方、一子金光大神だけでしょうが皆さんの場合は。大神く様にも荒神様にも拝んで居っても頼みゃしょうらんでしょうが、それこそお取次ぎ一本に縋っておる訳でしょうが。それでも物事はかどらずすぐにおかげが頂けんと言うのは、どういうことかとね。
 私はここんところをひとつのうえですね、これは只今ここの言葉に現れておる、成程ここまではいいんですよ。私が知った人にもう昔の事ですけども。天理教と金光教を深く信心させて頂き、しかも両方共熱心でした。もう御本部参る時にゃ天理教の方も大和の方へ、もう必ず年に何回か参りなさる。かというと金光教の方の総代もしておれれるから、金光様の御本部にもお参りをするんです。
 金光教の教会が近いから日産は金光様の。その人のお家に行くともうそれこそ麗々しく、その天理教の神様がお祀りしてあり、こちらの方の方にゃ金光様がお祀りしてある。沢山のばんとうがいろである。そかも奥様がその金光教のよかとこと、天理教のよかとこをまぁとっていこっちゅわえなんですよ。そりゃもう大繁盛のおかげを頂かれて、もう先日の店は。番頭たちも沢山おりましたが、もう番頭案が来てから笑うよりました。もううちゃとてもそりゃもう晩に来てください、そりゃもうもう賑やかなこつ。
 もうドンガンドンガンと言うてその天理教で拝みょる、と思うと柏手をうって高天原ども皆なさん。それも番頭たちもですね、そのちゃんとそのたいぶんかと言った様なこたぁ、金光様の教え食物訓が素晴らしいですねぇ。食物は人の生命の為にそれを言わなきゃご飯が食べられん。おはしがね金光様の八足の膳にこうやって置いてござる。お供え置いてあるわけ、番頭たはちそれをそのお箸を取りに行かなけりゃご飯が食べられん訳ですよ。そうすると神棚に柏手を打ってから。
 その自分のお箸をこう持って来てから、ご飯を頂かんならんと言うようにしつけてある。まぁご飯食べてそれを笑う訳です。そうにゃ拝みなさる。それでやっぱり大変な?盛なおかげを頂いておられましたでしょうね。今はもう金光様一本になっておられまして、ここに参って見えます。それがですねそのうだからそのうやはり、なら天理教ん方がみなそこくれん方がのったちゃの、そげなこっちゃおかげ頂かれんちゅう事なかことが分かるです。なら金光様の御信心を頂いてもです。
 私はなら金光様一本に絞っとってもならおかげを受けれんなのです。もう本当に拝むたぁ色々拝みょるけれども、頼む神様がもう金光様だけだと言うのが多いでしょうね。なら皆さんのとこだって、大神宮様もありゃ荒神様もござるとこもまだあんなさいましょうからね、拝みはござるに違いない。拝みゃ水の替えござりゃ御神飯あげござるに違いない。例えて又ならもう金光様ひとつに帰依してしまって、もう拝む所は金光様だけにしかないという様な風にしてあるから。ならおかげ受けるかというとそうじゃない。
 物事はかどらずね。昨日一昨日ある方がお参りしてみえた。それでそのうもう何ちゅうでしょうかね、もうそうとう古い御主人も息子さんも学校の先生しとられます。お百姓しとられます。ところが最近御無礼さして頂きょったら、娘が二階から落ちて怪我をした。息子が善道寺の駅の前で、なんか自動車衝突してから、首がうがこんごとなるとがなんか、むち打ち症ちゅうですかなんかそげんとになった。こりゃもう御無礼氏とるけんじゃろうち、もう第一そのうおかげ頂かにゃならん事は。
 もうとにかく家が傾く事もぐらがのっとるその人の屋敷に最近。はぁもぐらもおたがいさまですねぇ。もうそのもぐらのおる事はとてもばざらかだそうです。そしてその屋敷の所だけぐるりぐるっと掘るげなもん。だからその屋敷だけを集中してから、もうガターッと地が落ちてしまうそうですたい。それでもうこりゃ私が悪うございました悪うございなましたとそうにゃお詫びしたち神様に。ばってそのうおかげ頂かんけん、こりゃやっぱお参りしてこにゃと言うて、参って見えた訳です。
 でだいいちその子供さん達の怪我やら、そのなにやらおかげ頂くとどうじに、そのもぐらもたんもぐらがちょっとどうか、悪くせんごとというふうにまぁ願われたて。私はそれを聞かして頂きよってから、はぁもうこりゃと思うたですねぇ。甘木の初代親先生あたりがお取次ぎしなさるなら、直ぐおかげ頂きなさるじゃろうと思うた。こりゃとても私のお取次ぎじゃどうだろうかとこう思うた。けれども折角お願いしとなさるから、まぁお願いさせて頂きましたけれどもね。
 不思議に甘木の親先生辺りのお取り次ぎを頂くとですね、そういう農作物とかそういうような事については、非常に霊験あらたかだったですね。なんちゅうか山の中にのお百姓さんでしょうねあのう、猪が出てどうにもできないて、そこで甘木の親先生にお取次ぎを頂いて、そしたら甘木の親先生がねそん食べ物というのはね、人間だけのもんじゃなかとばいと仰った。「ちゃんと猪も神様が生かしてござるとじゃからね、人間と猪と半分ずついただきょるともよかじゃんの」と仰ったげな。
 それけその人は、はぁそうだとおもうたち。本当に自分のもののごと思うて猪がとったとこう思よるけれどもですたい、天地の親神様が作って下さって猪にも与えて下さると思うたらです、今までのこうまかで変わってしもうた。こりゃ猪ばっかりが悪いとじゃないとわかったら、もうそれこそ明くる日から猪は出らんごとなったという。いうようなねもうそういう例話は、もう甘木にはもう沢山有りますよ。それこそ直ぐにおかげが受けられるというおかげなんです。
 私達はそういうその体験がですね、ここでは私が商売人ですし金に難儀をしとるけん、金の事だったらですね、もうそりゃ金儲けするっちゃなかばって、金の儲かるおかげを頂かして貰う、私しゃつよい心得とるけど私にふかんけんおかげ頂かれるのです。その代り手形なんかのお願い来てなさい、もうそれこそ百発百中を頂くでしょうがね。だからこの事だきゃ私が独壇場だと思うとる。私が通る所を通っているから。だから私がもっと徹底しておる様な所をです。皆さんが通ったらお金にも不自由せんとです。
 例えば猫に小判といったような事を申しますよね。猫に小判を見せたところで、どうにもありゃいらん。猫はそれをはぁこりゃこれでいっちょ、どっか飲みに行こうてんなんてん思いやせん。これで家建てようとも思うわん。だからなぁにもならんという事を猫に小判といったようなふうに申しますようにですね、猫にはやっぱかつお節が一番。ならかつお節ならもうとても喜ぶわけです。ところがですそのなら猫がですよ、その好きで好きでたまらんかつお節でもです、例えばかつお節の番をするようになる。
 魚の番をするようになる。しつけりゃそげんなりますと。はぁうちの猫はあぁたもう魚の番をします。生臭げと言うたらぱぁっと飛び付いて行くのが猫ですけれども。それをじっと辛抱させる教育をする。そうするとその猫がですね魚の番をするようになるとどげんなりますか。はぁりゃもう家の猫ちゃんなあんたもう魚の番でんすると言うてから、あぁたもうどんぎんのごたるでん作ってやったり、もう布団でんなんでんもう、エバーソフトのごたるとを作って、フワフワするとの上に置いちゃる。
 それこそ食べ物でんなんでもそれこそかつお節を削ってやる。うちの猫じゃなかばってそげなことして、いわゆるその猫が猫並じゃなくて、もう猫が人間並に扱うてもらえるごとなるのですよ。人間でも同じです。今度はそれこそ人間に小判と言うたらもう飛び付くのじゃろうけれどもね、猫は小判に飛びつかんけれども、人間な小判に飛びつくごとその小判が好きなんだ。お金好きなんんだ人間ちゅうものは。もうお金がなからなにゃこの世の幸せはないごと思うとる。
 もうお金お金お金てもうそのう寝ても覚めてもそのお金の事ばかり。それを見せれれるもんじゃけんそれに飛びつく。百万円の徳がよかか百万円の現金がよかか。そりゃ日頃はもうお徳いただかにゃちゅうてから、一生懸命信心しよるばってん、現ナマどん実際に見せられたら、もうお徳とかどげんでんよか。もう現ナマにポンと飛び付いていく。だから百万円使うてしもうたら又難儀せんならん。もう本当に情けないばってんそれが人間。猫がかつお節に弱いように人間も金に弱いです。
 そこんにきをね私は会得しとるのです。甘木の親先生がようそういう天地のね、御恩徳をよく体得されて、それこそあのうどげん汚れもんが来たっちゃ、先生の御理解ども頂いてから御祈念を頂いたら、もうもぐらがもうおらんごとなるじゃろち思いますたいね。ほんとうにこりゃやっぱりおかげ頂かにゃいけんなと、お徳訳にゃいかんと思う。そこでそのう例えば私の方がですたいね、それこそ猫に鰹節をせても鰹節をじっとも、許されなれば食べんちゅう位に教育が出来ますと。
 その猫はもう猫なみじゃない、人間なみに扱われるようになるように、私共が例えばねその小判を見せられてもです、許されなれば使わんという位になりますとね。ちゃあんともう人間が人間並じゃない、それこそ神様並におかげが頂けるようになるのです。必要なものが必要に応じてそれこそ、打出の小槌じゃないけれども、打ち振れば必要なだけ出てくるというようなおかげが頂とるです。そういうところをですね、例えばねあぁそうだとわかるという事一心とは。
 例えば甘木の親先生が、「食べ物はね人間の為だけじゃなかばい。猪も神様がちゃんと飼うてござるとよ」と、神様が猪も食物を与えてござるとよと、それを本当に確信し本当に猪も立ちゆかねばならん事を、甘木の初代は例えばならお祈りのなさったに違いなはい。そこから猪は猪の食べ物を自分で探して、そこの人間の畑を荒らさん様になったというような、おかげが受けられておられるように、金銭の事でもそうです。私が言いよる本当の金銭に対するところの頂き方がです。
 猫に鰹節を見せたような、人間に小判を見せると直ぐ飛び付くような。そりゃなからなきゃ金はいらんという事じゃないけれども、言わば猫が許されなければ、その生臭けでも食べない位に教育が出来ると申します様に。人間でも許されなければ使わんというような生き方になりゃね、ありかたになりゃねもう絶対におかげが受けられるんだけれども、少しばっかり入ってくるともう自分のごと思うちから、自分の得手勝手な事に使うしまう。そういう精神がね残っておる間は駄目。
 本当にそうだと分からして頂いたら、直ぐにおかげが受けられる一心とはそれね、それを教祖は教えに仰っておられるかと言うとね。「真の道を行く人はです肉眼を置いて心眼を開け」とおっしゃった。真の道を行く人は肉眼を置いて心眼を開けとね、どうしてこんなにはかどらんのだろうかと。どうしておかげにならんのだろうかと、いう間は肉眼を以て見ているのです。只一所懸命拝んで頼むからまぁどうやらこうやらおかげになってもです、直ぐにおかげが受けられるというな垢抜けしたおかげになって来ない。
 私が思うのはそのおかげというのがですね、あの世にも持って行けこの世にも残しておけれる。いうなら限りなく金銭ならたとえば金銭の事を申しましたが、その金銭がもう限りなく不自由せんで済むような、おかげの頂けれるところまで。おかげを頂くためにはね、本当に金の心が分かり金の使い道が分かり、さしてもらうところから限りない金銭なら、金銭のお繰り合わせを頂けるようになるのです。本当にですねぇ。ここであのう芯というたらひとつじゃ。
 神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受け、直ぐおかげを受けられると仰っておられるでしょう。その一心というのはね草木でも芯と言うたらひとつじゃと仰る。ひとつしかないです芯と言うのは。真理というのは。いくつも有るもんじゃないです。そこで私共は「真の道をいく人は、肉眼を置いて心眼を開け」と仰る。心眼を開かんとそれがわからん本当な事が。息子が悪かごつ嫁御が悪かごつ、主人が悪かごと見える訳なんです。主人じゃなかった嫁御じゃなかった、息子じゃなかったね。
 本当は私が悪かったんだと、例えばそのう本当に分かるという事が、一心なんです。だから私が悪うございす。私が悪うございすというて、そのう言うとるだけじゃ分らん。ならどこが悪かかちぃう。唯私が悪かだけじゃいかん。先日あのう、久留米から参って来るあのう、神野田さんという人が居ります。勤めにいきょうりますが。どうも同じ従業員の中にですたい、どうもその上役で、もう目の敵の様に、そのいろいろまぁ根性の悪いことをいわっしゃる。
 もうこっちも大体が初めから、どうも好きなタイプじゃなかったが、もう段々段々その人が嫌いになってきた、もう顔も見ろうごともなかごとなった。もう最近なその人の顔を見るとですねもう吐き気がくる、朝。朝出勤してですねその人と顔を会わせると、胸がむかむかしてくる。そして吐き気がもう吐き気が模様す。もうこげん好かれんごとなっちゃならんんばってん、又こげん好かんとがおるなら、本当に人間な不幸せですよね。そん人の顔をみたら吐き気の来るごたる。
 そうしたら今度はとうとうほんなこて胃が悪うなってきた。胃が痛む仕事が出来ん、お願いみえましたから、私はねその事をいわゆるあのうあんたが、肉眼で見ておるからその人が嫌い、嫌やなんだけれどもね、心眼を以って見ると、その人が神様ばいと私は申しました。その人の言いござるとは、神様が言いござるとよと私は申しました。だから今日からはね早速その人が神様、その人が言わっしゃることが、神様が言いござるとと思うてです、ようく注意して聞きよってご覧。
 自分の心にぶすぶす当たるような事を言わっしゃったり、しなさったりするに違いない。「はぁそうですねぇ。そげん務めましょうか。」もうあくる日からですね胃が痛むのが良うなった。もちろんむかむかするとも良うなった。それから一週間後に先日お礼に出て来ましたが。お願いをしてもう一週間おかげを頂いて痛まんからもうおかげ頂いたっちゃろうと言うて、お参りして来ました。これなんかはほらね直ぐにおかげを受けられるということはそれでしょうがね。
 椛目ごたる禁句んごたる人がです、反対にそれが神様の姿に、まぁ一生懸命努力したからじゃろうけれども。見える様になり。神様の声として聞こえれるようになって、今までの自分のみかた考え方は肉眼で見ておったんだ。心の眼を以ってすると、そうだと分からして頂いたら、さぁもう直ぐにおかげが受けられる。一心とはそれです。だから信心真の道をゆく人は、肉眼を置いて心眼を開けとこう仰るのですから、心眼を開かせて頂く信心の修行がこそが大事であると同時にです。
 どうしてこんなにいつまっでんはかどらんじゃろうかと、いうそのう事がですよねそれをまぁだ肉眼で見ておる。本当に心眼を以って見ていない。心眼を以って見るならもう心の底から、お礼が言えれるような事を、肉眼を以って見ているから、どうした事じゃろうかという事になって来る。そういう一心。「神信心もその一心を出すと、神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けらます」と仰る。どうぞひとつおかげを頂いてね、今日三十六節の一辺通り読まして頂くとです。
 只、何様が日本国中の神様を拝みよるとちゅうのは、あまりにもの信心じゃから、「ひとつにせよ」とこう仰っておられる。だから金光様一本に絞ったという事もですけれども、それだけではおかげが受けられていないでしょうが事実。直ぐにおかげになってないでしょうが。してみるとこの御理解に、もういっちょ奥の真意が有る事を悟らしてもろうてです、直ぐにおかげの受けられるという一心でなからなければならないという事を、三十六節から分からして頂きますですね。
   どうぞ。